ほおずきは江戸時代、笛や人形にして子供が遊んだり、薬草に使われていました。
薬に使われていたのは、ほおずきの実を丸呑みすると子供の夜泣きやひきつけ、大人のお腹や胸の痛みを和らげる効能があるといわれていたからです。
ほおずきは漢字で書くと「鬼灯」と書き、神霊の依代(よりしろ、神霊が寄り着く物)とされ、お盆の時期にご先祖様を迎えるための「ほおずき提灯」として使われてきました。
一方、ほおずきを家に植えると病人や死人が出るとも言われ、忌み嫌われるものでもありました。
そんなほおずきですが、仏教とも縁深く、浅草寺では毎年7月9日と10日に「ほおずき市」が開催され、毎年全国各地から何十万人もの方々が訪問する人気の行事ですね。
しかしなぜ「浅草寺」と「ほおずき」が結びつくのでしょうか?
調べてみると、「源頼朝」や「仏教」など色々なキーワードと関連していて非常に面白いですよ!
詳しく見ていきましょう。
ほおずき市の由来
平安時代、毎月18日が観音菩薩と縁のある日(縁日)とされ、「18日に浅草寺にお参りすれば1000日間毎日お参りしたのと同じご利益がある」といわれ、「千日詣(せんにちもうで)」といい親しまれていました。
その後室町時代になると、仏教での功徳日(くどくび、その日参拝すれば平日の参詣以上の功徳があるとされる日)も縁日であるという風習が生まれ、多くの人が功徳日に参拝したのです。
特に人気のあったのが、7月の10日で、この日は観音様と一年で一番縁が深い「四万六千日(しまんろくせんにち)」といわれ、この日に参拝すれば46000日の功徳を積んだこととされていたからです。
なぜ46000日なのかというと、46000(日)÷365(日)=126(年)で、人間の一生分を表しているといわれています。(所説あり、米一升が46000粒で、一升と一生を掛けた説もあります)
江戸時代に入ると7月10日には大勢の人が押し寄せ、前日の9日から参拝入りする人もいました。
どうしてほうずき市が浅草にできたのかというと、鎌倉時代、源頼朝が奥州征伐の帰り道に日射病で倒れた兵士たちにほおずきを食べさせ、休ませたのが浅草でした。
その後江戸時代になってから、源頼朝が休ませた浅草にほおずき市が立ったのです。
このような経緯で、7月9日と10日に「浅草ほおずき市」が催されるようになりました。
源頼朝が部隊を休ませ部隊にほおずきを食べさせたことと、四万六千日が合わさってできたといっても過言ではない「ほおずき市」ですが、冒頭でも言った通り、ほおずきには「病人や死人が出るとも言われ、忌み嫌われるもの」でもありました。
実際にほおずきを煎じて飲むと、子宮の動きを盛んにし、堕胎(だたい)作用があります。
ですがこのような作用を知ってか知らずか、花言葉が生まれた17世紀の西洋でちょっと残念な花言葉が付けられました。
次はほおずきの花言葉とその由来を見てみましょう。
鬼灯(ほおずき)の花言葉と由来
鬼灯の花言葉は、
- 偽り
- ごまかし
- 欺瞞
- 心の平安
- 不思議
- 自然美
です。
ちなみに、西洋での花言葉も「ごまかし」という意味があるそうですよ。
実が大きい割に中は空洞で、種も小さいので「偽り」「ごまかし」「欺瞞」という意味が付けられるようになりました。
夏の実だしオレンジ色で、見た目だけで見ればポジティブなイメージがありましたが、「見掛け倒し」のような中々シビアな花言葉が付けられたものですね^^;
ほおずき市の由来と見た目から想像できない意外な花言葉とは?まとめ
今回は、ほおずき市の歴史や由来について解説しました。
いかがでしたか?
まとめると、
・浅草ほおずき市は、鎌倉時代に源頼朝が、奥州征伐の帰り道に浅草で部隊を休ませ、日射病で倒れた兵士たちにほおずきを食べさせて元気づけた。
・その後江戸時代のその場所にほおずき市が立った。
・平安時代、毎月18日が縁日とされ「千日詣(せんにちもうで)」と親しまれていた。
・室町時代になると功徳日も縁日であるという風習が生まれた。
・7月の10日は「四万六千日(しまんろくせんにち)」といわれ、この日に参拝すれば46000日の功徳を積んだこととされていた。
・あまりの人気で前日の9日から前乗りする人々も続出したため、のちに7月9日と10日に「ほおずき市」が立つようになった。
・ほおずきの花言葉は「偽り」「ごまかし」「欺瞞」「心の平安」「不思議」「自然美」。
・西洋での花言葉も「ごまかし」である。
でしたね。
歴史と宗教と花。
これらが上手く合わさったてできた「ほおずき市」は、江戸を感じる夏の風物詩といえますね。
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